史実・伝承・創作の区別
史実 資料で確認できたこと 伝承 伝えられているが確証が弱いこと(ゲーム内でもそう表示) 創作 物語として加えたこと
| 章 | 史実 | 伝承 | 創作 |
|---|---|---|---|
| 序章 | 杉家の生まれ、玉木文之進の教育、9歳の明倫館講義、11歳で藩主・毛利慶親に『武教全書』を講義 | 蚊を払って叱られた話、「亦一生の内の日なり」 | 村の人との会話、クイズの出題形式 |
| 第一章 | 九州遊学で宮部と知り合う、象山に学ぶ、手形が出ず約束のため脱藩、士籍剥奪、10年遊学の許可、浦賀の黒船、長崎のロシア艦 | — | 象山・役人・水戸の学者のセリフ、東北の村の場面 |
| 第二章 | 金子と小舟で旗艦に乗り込み約45分で送還、自首、「三月二十七日夜」の記録 | — | 漁師が舟を貸す場面、通訳とのやりとり |
| 第三章 | 金子と別の獄に入る、金子の病死、獄中の孟子講義と『講孟余話』、1855年12月の出獄 | 富永有隣・吉村善作・高須久子との交流の細部 | 囚人たちの具体的なセリフ |
| 第四章 | 杉家での幽閉、講義の再開、玉木文之進の塾名を継いだ松下村塾 | — | 塾生が仲間になる場面と会話 |
| 第五章 | 勅許なしの条約調印、将軍継嗣問題、梅田雲浜の捕縛、井伊直弼の大老就任、コレラの流行 | — | 塾生が京・江戸で聞き込みをする流れ |
| 第六章 | 間部要撃策、武器の借用を拒まれる、塾生の反対と失望、再入獄、「草莽崛起」、江戸送り、涙松の歌、評定所での告白、留魂録、10月27日の絶筆 | 留魂録を同囚に託したこと | 高須久子・吉村善作との別れのセリフ |
| 終章 | 1859年10月27日の処刑(満29歳)、桂小五郎・伊藤利助らが遺体を引き取り回向院に埋葬、1863年5月12日 長州ファイブ(伊藤俊輔・井上聞多・遠藤謹助・山尾庸三・野村弥吉)の横浜出航と藩主の許可、伊藤・井上の1864年の帰国、奇兵隊の結成、禁門の変・池田屋事件、伊藤の初代内閣総理大臣就任、沼崎吉五郎が三宅島でも留魂録を持ち続け1876年に野村靖へ渡したこと、その留魂録が萩の松陰神社に収められていること | — | 横浜での5人や商館の人・船頭とのセリフ、伊藤が下田の松陰を思う場面 |
| 行動の理由 | 黒船への密航(浦賀で黒船を見て西洋文明に心を打たれ、象山の勧めもあって外国留学を決意)、国禁を破った罪での投獄、再入獄(幕府を批判し倒幕も持ちかけ、藩に危険視された)、江戸送り(萩で梅田雲浜と面会していたため安政の大獄に連座)、死罪(評定所で間部要撃策を自ら告白したことによる) | 自首した理由(記録はなく、正面から罪を受けようとしたと考えられている)、評定所で自ら語った理由(至誠が通じると信じたためと考えられている) | 理由を語るセリフの言い回し |
| 全編 | — | — | ヘイソク(アキラメ・サコクなど)との問答バトル、どうぐとわざの仕組み |
ウェブ資料
- 吉田松陰は何をした人?明治維新のリーダーを育てた生涯と名言・功績(山口県観光サイト「おいでませ山口へ」)生い立ち、玉木文之進の教育、11歳の御前講義、東北遊学と脱藩、10年遊学の許可、黒船と下田の密航
- 吉田松陰(コトバンク:日本大百科全書・世界大百科事典ほか)9歳の明倫館講義、『武教全書』の御前講義、九州遊学と宮部鼎蔵、佐久間象山、士籍剥奪、長崎のロシア艦
- 吉田松陰(Wikipedia)間部要撃策と塾生の反対、野山獄への再入獄、「草莽崛起」、評定所での告白、処刑日(年譜の確認に使用)
- 吉田松陰絶筆(山口県文書館 所蔵資料解説)安政6年10月27日、呼び出しの声を聞いて書いた最後の歌
- 陶徳民「ペリーの旗艦に登った松陰の『時間』に迫る」(関西大学)ポーハタン号の航海日誌に残る、下田密航の時刻と約45分の滞在、小艇での送還
- 涙松跡(山口県観光サイト)江戸送りの際の歌「かえらじと 思いさだめし 旅なれば ひとしほぬるる 涙松かな」
- 吉田松陰幽囚ノ旧宅・松下村塾 多言語解説文(観光庁)杉家での幽閉、講義の再開、松下村塾の始まり
- 松下村塾 多言語解説文(観光庁)松下村塾の運営期間、92名の門下生、教育の特徴
- 「野山獄の太陽」吉田松陰(PRESIDENT Online)野山獄で囚人の長所を見つけ、『孟子』の講義を始めたこと
- 吉田松陰の評伝の書評(本の話/文藝春秋)兄・梅太郎に休もうと言われて「亦一生の内の日なり」と答えた逸話
- 日米修好通商条約批准書交換証書(外務省 外交史料館)万延元年遣米使節がポーハタン号と咸臨丸で渡米したこと
- 万延元年遣米使節記念碑(たびこふれ)1860年2月13日の横浜出港、77人の使節団、ホノルル・サンフランシスコへの寄港
- 特別展示「19世紀の日本と亜米利加」資料(横須賀市自然・人文博物館)遣米使節の派遣期間と使節団の顔ぶれ
- 伝馬町牢屋敷跡(たびこふれ)吉田松陰終焉の地としての伝馬町牢屋敷
- 鎖国時代に海を渡った若者たち 〜長州ファイブの活躍〜(山口県観光サイト)1863年5月12日の横浜出航、5人の名前、藩主の許可、伊藤・井上の1864年の帰国
- 吉田松陰ゆかりの地(ウォーカープラス)桂小五郎・伊藤博文らが遺体を引き取り回向院に埋葬
- 留魂録(松陰神社 公式)2通書かれたこと、沼崎吉五郎が三宅島でも持ち続け明治9年に野村靖へ手渡したこと
- 沼崎吉五郎と飯田正伯に託された2通の留魂録(人物事典 幕末維新)沼崎が持っていた留魂録が萩の松陰神社に収められていること
古典・原文
- 『孟子』離婁上「至誠にして動かざる者は、未だ之れ有らざるなり」(わざ「至誠」、野山獄のクイズ)
- 『孟子』公孫丑下「天の時は地の利に如かず、地の利は人の和に如かず」(わざ「人の和」、野山獄のクイズ)
- 『論語』学而「学びて時に之を習う、亦説ばしからずや」(序章のクイズ)
- 『孫子』謀攻「彼を知り己を知れば、百戦殆うからず」(序章・御前講義のクイズ)
- 吉田松陰『留魂録』冒頭の歌「身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂」
おことわり
物語は最初から最後まで史実にもとづいています(以前の版にあった「もしもの物語」は、2026年10月の版で史実のエンディングに改めました)。セリフや場面のつなぎなど創作の部分は、上の表で区別しています。誤りに気づいた方は、制作者までお知らせいただけるとうれしいです。